- 虚無僧
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 11月29日_10時06分16秒
虚無僧の起源は、「徒然草」に
< しら梵字という暮露、師の仇なる、いろおし坊という暮露と互いにつらぬき合い
て死にたる・・・ >
とある。
この暮露なる者の語源は、”ぼろぼろ”の紙衣を着ているその容姿からくるもの
とも言われる。
この暮露が後に薦(菰・こも)僧と言われるようになる。
薦は藁(わら)の筵(むしろ)を抱えた姿の乞食僧であり、
薦(こも)僧-->虚無(こむ)僧と変化したと言われる。
何れにしても、両者共に室町頃までは尺八を吹いたとの記録はないが、室町から
江戸初期にかけて、尺八を吹く薦が現れる。
【関連情報】
旭滝と龍源寺跡 、瀧落之曲(北条幻庵作)
詳細は
虚無僧
- 千葉県パワースポット 野田市 正一位徳寿稲荷神社
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 4月30日_09:47:25
八乙女神社の境内に正一位徳寿稲荷の石碑がある。
千葉県野田市にある同名神社が今でもある。
千葉は北条氏が関東地方を制圧した拠点であり、八乙女神社にこの神社が祭られて
いる事は徳倉城に関係する歴史資料発掘の大変重要な手掛かりになる。
- 歴史愛〜歴史を学び、実生活を豊かにする〜
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 12月12日_15:45:53
「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実
生活に活かすことのできない解説ばかりです。
歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現
する手助けになるように翻訳していきます。
歴史愛〜歴史を学び、実生活を豊かにする〜
- 徳倉城周辺の身近な旧道
投稿者 : 徳倉さん <> <> 10月10日_13:19:07
- 城を観る
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 5月29日_09:59:37
- 全国遺跡報告総覧
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 8月28日_11:18:34
- 出雲 亀遊山城
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 8月28日_07:57:26
徳倉城跡にある亀遊館との関連を調査する
- 北摂津守の剣戟乱舞
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 4月29日_20:17:12
いらっしゃいませ。
お城・城跡・史跡。ちょいちょい神社仏閣などの訪問記録です。
合間合間にふざけたりしますが、根は真面目な奴です。
どうぞゆるりと致されよ。
北摂津守の剣戟乱舞
- 九鬼の響き
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 4月29日_20:10:58
栃木県の情報発信。
九鬼の響き
- 金森戦記 時代祭とブログ
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 4月29日_18:55:39
- 城・館・陣屋跡と合戦を訪ねて
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 3月21日_16:42:05
- 400年前にも「サラリーマン」の悲哀 古文書が語る「ある武士の生涯」
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 2月12日_08:09:16
桜井氏は、少なくとも武兵衛の父、桜井左近の代から、戦国時代の関東に覇を唱えた有力武将・
北条氏に仕えていた。3代目当主、氏康の家臣「江戸衆」として小石川(現在の東京都文京区)を
所領としていた−という記録が残る。
左近から武兵衛に代替わりすると「上野(こうずけ)衆」の一員となり、所領も上野国(現在の
群馬県)内に移ったとみられる。
上野衆を主に束ねていたのは氏康の息子で4代目当主・氏政の弟、氏邦(うじくに)。
今風にいえば一族経営の大企業の子会社で働く勤め人−といった立ち位置だろうか。
詳細は
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- 諸磯・油壷周辺の史跡めぐり
投稿者 : 愛信 <> <【リンク先】> 12月6日_12時42分45秒
今回は諸磯・油壷周辺の史跡めぐりです。
以前に新井城跡の見学に油壷へ訪れましたが、今回はそのとき見逃していた周辺の
史跡をめぐってみました。鎌倉遺構探索をいつも見ていただいている皆さまには地
味な史跡かもしれませんが、念願の白鬚神社や義士塚などを見ることができました
。
諸磯・油壷周辺の史跡めぐり
小田原北条氏が相模に勢力を広げて行った頃の話しが沢山あります。
- 第5回十五連隊のあしあと
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 12月4日_10:44:00
昭和12年(1937)の日中戦争開始後、第十四師団の満州(中国東北部)移駐計画が本格化し、昭和
15年(1940)8月、移駐決定。
十五連隊も高崎を離れ「満州第四十六部隊」となってチチハルを新しい駐屯地とし、高崎には東部
軍管区所属の「第百十五連隊(東部第三十八部隊)」が置かれます。
その後、昭和16年から始まった太平洋戦争の激化により、十五連隊は南方パラオ諸島に派遣され、
ペリリュー島の攻防をめぐってアメリカ軍と激戦を交え、2個大隊分(約2000人)が全滅し、
昭和21年(1946)、日本に帰還できたのは1個大隊分の人たちだけでした。
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- 土肥金山の歴史
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 12月4日_05:55:38
慶長11年(1606年)全国金山奉行の大久保石見守長安が伊豆金山奉行を拝命して本格的に伊
豆金山の開発に力を注いだ。
伊豆の諸金山は長安の導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させた。
特に土肥金山は立地条件がよく、周辺の金山からも鉱石が集約されて大いに繁栄した。
慶長12年(1607年)、家康は大御所として駿府に移り、ここから江戸の二代将軍秀忠を通じ
て全国の諸大名をコントロールすることになるのであるが、この時代の家康の財政を支えた慶長大
判小判は、対岸の土肥金山から駿府まで船で直接搬送された金で鋳造されたものである。
その意味では土肥金山は、当時の家康の財政を賄った大変重要な金山として位置づけられるのであ
る。
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鉱山の湧き水を排出する方式は佐渡の金山で南沢疎水道工事を行った辻守遊
(前田六兵衛直近の次男)が開発したものである。
- 源頼朝の乳母摩々尼と摩々局
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 12月1日_19:30:59
建久3年(1192)2月5日、余命いくばくもないとして、香り高い酒を持って、相模国早河荘から
再び頼朝の御前に参上しました。
乳母は92歳になるという。頼朝はたいそう憐れみ、望みがあれば何事でも叶えよう。
というと、乳母は早河荘内の知行地の課役免除を総領に命じてほしいと言うので、頼朝はその願い
を聞きいれた上に更に三町の田地を与えることを約束しすぐに土肥の弥太郎に伝えるよう命じてい
ます。
この記事から、早河荘(小田原市早川付近)は、建久3年には土肥氏の勢力下にあったことがわか
ります。
土肥弥太郎とは、早河荘の惣領地頭である土肥遠平(土肥実平の嫡男)のことです。
詳細は
【平家物語・義経伝説の史跡を巡る】源頼朝の乳母摩々尼と摩々局
頼朝が設立した早川権現の由縁が判る記事です。
- 宇賀神社(登録有形文化財)
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 11月23日_16:18:59
宇賀神社に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。
有親は遊行十二代尊観上人の弟子となり名を徳阿弥と、長男の親氏は長阿弥と名を改めました。
そして、次男泰親が独阿弥となり、三河国大浜称名寺に移るとき、遊行寺に宇賀神社を
奉納しました。 長阿弥はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、独阿弥は松平家の
養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称しました。
これが徳川家の祖先といわれる由縁です。(諸説あります)
【関連情報】
【金運をもたらす異形の神】徳川家を押し上げた秘密の力
詳細は
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徳川家康が北条氏小田原城陥落の翌年に遊行寺(藤沢市)に100石寄進しています。
- 本覚寺(ほんがくじ) と昌徳宮邸
投稿者 : 徳倉さん <> <【リンク先】> 11月20日_19:23:57
日出上人が三島での修行を終え、鎌倉に来る前、日蓮上人の教え受けたいと拝んでいると、夢の中
で、「もし日蓮に会いたければ伊豆の国の宇佐美へ行け。」と教えられました。
宇佐美へ行った日出上人は、そこで鏡澄丸という子どもに会い、その子を弟子にしました。
この子どもが日朝上人で、「日蓮上人の生まれ変わり」といわれるくらい、偉い坊さんになりました。
【関連情報】
本覚寺
第九六番 君沢山蓮馨寺(浄土宗)日限地蔵尊
楽寿園(旧昌徳宮邸)〜三島市
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- 寺門事件(てらかどじけん) -桟敷山事故-
投稿者 : 徳倉さん <> <> 11月16日_15:11:27
写真をクリックすると始まります。
- 【伝聞歴史資料の掲示板】開設のお知らせ
投稿者 : 徳倉さん <> <> 8月23日 20時07分56秒
情報交換、意見発表の道具として、自由にご利用ください。
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